まっきーのニッキー

主に自分宛の毒を吐きます。

たとえまほろまで目覚めたとして

まほらは、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語。「まほろ」「まほろば」「まほらば」「まほらま」ともいう。楽園。理想郷。 ーWikipediaより

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たとえば生活の中で少しばかりの滞留があったとして、それを退屈と捉えたのならば、あなたは生活の変化を求めているのだろう。逆に生活の中で退屈を求めているとしても、得てして現状からの変化を求めていることになる。

明日の朝、一緒に電車に乗っている彼らは、どれほどの変化を求めているのか。

「分からないことを考えても仕方ないから、明日生きるしかない。」と普段なら人を励ます時の常套句として吐いている言葉でも、酔いが回ってくるとそうもいかない。自分の生活のサイクルと、周囲のサイクルの渦の差異が、眠たい頭にフラッシュバックする。

友人も、妻も、生活を大きく変えていく。

私に何かできるかというと、何もできない。

手の届かない雲をボーっと眺めているような気持ちだ。「昔は俺だって」なんていうような意地ではないが、数年前までの私ならば、生活の変化を渇望して、どこへでも引っ越して、どこへでも転職して、どんな趣味でもとりあえずやってみる。と自分本位な冒険をしていただろう。周りの変化も聞いたならば、どうにか理由を見つけては揚げ足をとっていただろう。しかしもう、できない。無限に湧くと思っていたエネルギーは、いつの間にか枯れていた。

こう思って周りの渦を見渡すと、どいつもこいつも恵まれてんなと、僻みと虚しさがふつふつと湧いてくる。

彼らは目的地も決めずにただ変化を望み続けている。時間が過ぎるのを待っている。まだいない恋人や、子供に、人生を託すためのサイクルを築いている。恋人や子供ができて、そこがまほろまであるかというと、そんなわけがないのに。彼らはありもしない楽園に行くための明日を迎えようとしている。似たような生活と、似たような理想を、一人一人が別々に電車の中で描いている。同じ車両にいる私の渦は、彼らとは逆向きだし、小さい。

私は明日も同じように目を覚まして、出勤して、帰宅して、酒を飲んで寝るだろう。同じように繰り返される生活。しかし憂ではなく、不安もない。この生活に確かな満足を感じている。

いつ大人になったと思ったかなんて考えたこともなかった。しかし今思えば、この生活を迎えた時に私は大人になった。同じようなサイクルで、去年と同じ朝を迎えるようになった時に、私は大人になったのだ。この停滞は不安を産まない。変化が起きないまま、明日までの時間を過ごすことができる。

金や、健康や、ひとつひとつの不安と向き合うことができる、この停滞こそがまほろまであって、私の幸福となった。