レントゲンを撮る時、前からならAP、後ろからならPAというように区別する。Aはアンテリオール(anterior)、Pはポステリオール(posterior)とそれぞれ意味がある。x線は透過性があるため、撮影されるレントゲンは、APでもPAでも、左右対称のほぼ同じ画像となる。
Ｐ
また、学生が自殺した。まだ5月だ。新学期が始まって1ヶ月で、1人死んだ。
何万人もフォロワーがいるような、普段は何の仕事をしているのか、想像もつかないような天上人が、ニュースのリンクと一緒に「逃げることは間違ってない。」と世界に向けて呟いて、いいねが1000もついている。
天上人達には、逃げても良いと発信することと、行政や学校のサポートの脆弱性を叩くこと以外の発言は許されていない。誰もが許さない。それ以外の選択肢は沈黙だけだ。きっと彼等も逃げたい時がある。結果、逃げていないだけだ。
明日また誰かが死ぬ。死んで、1000いいねが天上人につく。誰も逃げない。逃げられない。
A
机の上の空き缶が、落ちる音で目が覚めた。スマートフォンから鳴る波の音を消そうとしたら、肘にもう一本の缶が当たった。幸い中身がまだ多かったようで机からは落ちない。
7:02。私がかけたものではない。ということは、妻がかけてくれたアラームが鳴ったのだろう。見渡すと妻が廊下を挟んだ寝室で、背中をこちらに向けて寝ているのが見えた。YouTubeから1.5倍の速さで流れる、機械音を止めに行く。おはようと声をかけると、むにゃむにゃと言っていた。
起きたままの格好で、シャワーを浴びるか、コーヒーを飲むか考え、コーヒーを飲むことにした。
あと20分で家を出る時刻となる。飲み終えて行ってきますと言うと、ゴミ出して、と声が聞こえたが、ごめんねとだけ言った。
イヤホンを挿して、昨日と同じ格好で、昨日と同じ音楽をかけて、職場へ向かう。そういえば、昨日も同じく謝っていた。
Ｐ
何かから逃げようとした。天上人は逃げることは肯定しても、逃げ道は教えてくれない。私は昨日何かから逃げようとした。結果、今は京浜東北線の車内から、職場までの風景を眺めている。
逃げるって、なんなんだ。解決したとも思えない。逃げることは解決とイコールで結ばれない。
天上人に捧げられた1000ものいいねには、逃げることへのロマンが詰まっている。逃げ道なんてものは、ただの選択肢の比喩であって、結果逃げたかどうかなんて、時間が経ってみなくちゃわからない。
私は昨日、逃げきれなかったのだろう。
A
朝の茅ヶ崎は、昨日と違って雨が降っていた。
始業時間4分前にタイムカードを切る。制服に着替える時、汗の匂いがした。一昨日もシャワーを浴びていないことを思い出した。今日は少し人と距離を取ろうと決めた。
休みの希望を記入するカレンダーは、11月ならまだ埋まってない。半年後、と考えると途方もなく感じて、何も書かずに仕事に戻る。今日は昨日より少し忙しい気がするが、酒が抜けていないだけとも思える。私は時間が過ぎるのを待つように、時間から逃げるように体を動かした。
Ｐ
酒でも、ギャンブルでも、思い出でも、全てが逃げ道となり得る。非常口の緑のランプが、あらゆるところで私を照らす。どうせ逃げるのならば、より良いところへ逃げたいと思ってしまう。
世界が褒めてくれるような、逃げ道以外は、あってないようなものだ。そこに逃げたとして、いいねはつかない。いくつもの逃げ道を無視して、自宅の玄関で非常口のランプ見つめる。
一体、何から逃げたいのか。
公園のベンチでチューハイのプルタブを上げると、世界から非常口が消える。私は、私を照らさなくなった玄関を「ただいま」とくぐっていく。
おわり
