まっきーのニッキー

主に自分宛の毒を吐きます。

陰キャオタクは絶望の夢を見るか?

私は昼間、職場の個室トイレでそのブログを読みました。酷いブログでした。道化であるための自虐を繰り返して、道化であるための攻撃を繰り返していました。私の幼稚さ、至らなさを指摘してくださる皆々様、いつもありがとうございます。他意はございません。

時刻は午前2時を疾うに過ぎました。明日6時前に起きなければならない私にとって、好ましい時間ではなくなってまいりました。私はベッドの中で目を瞑り、自らの悪いところを10個考えてから寝るようにしているのですが、今日はなかなか純度の高い悪さというものを発見致しましたので、取り急ぎブログを書いている次第であります。

私よりも優れた皆様の前で、自分の発見を披露するというのは、すごく勇気がいることです。なのでここはどうか、一度くだらぬ話にもお付き合いください。これから話す発見というものに、全く関係のない話でもありません。ただいきなり発見を話して、真意が伝わらないよりかは、多少回り道をしてでも伝わったほうが良いと思ったまでです。

数年前に出会った人の話です。正義を振り翳してくるような、そんな人でした。私にとって、正義とは多くの場合、そのまま敵意となるものです。人が織りなす社会のルールですとか、常識ですとか、そういったものを持ち合わせていないので、私はいつもあなた達の当たり前に振り回されています。正義を振り翳した年上のその人は、私をどうにか社会の中に連れ込もうと説教をしました。私は知っていました。たとえ説教を受けて改心したとしても、そのコミュニティの中での立場というのは、ひとつも変わらないのです。ただ個性がひとつ奪われるだけだと知っていました。だからひどく反抗的な態度をとったことを覚えています。結局その人とうまく行くことはありませんでした。

今回の発見というのは、このエピソードを思い出していた時に見つけたものです。今まで他人と自分のコミュニケーションは、お互いの器に、水を注ぎ合うものだと思っていました。

しかし今回私が思ったことは似て非なるものです。

相手の蛇口を捻って、自分の器の中に水を注ぐことが、コミュニケーションではないでしょうか。

多くの人たちから水を奪ってきました。先ほど書いた年上の正義マンは、私から多くの水を奪っていきました。返してはくれませんでした。水を大事にしなければいけない人、別に気にしなくても良い人。その辺の線引きをしっかりとすることが、上手なコミュニケーションの取り方なのかもしれない。と思いました。

起きたら忘れているであろう、些細な出来事の、備忘録としてのブログです。このまま公開させていただきます。ではおやすみなさい。