タイトルと関係なくて申し訳ないのですが、僕は今病み期というやつです。
鬱、というには元気であり、だからといって平常かというとすこぶる気分が落ち込むような、そんな時期です。
学生の頃に感じた病み期と大きく違う点は、だいたいの人は定期的にこの病み期があるというのを自覚しているところです。病み期は人それぞれで、悩むことも人それぞれで、そういうことを自覚している分、いずれ気持ちは楽になるだろう。とも思っています。
というより僕には悩み事は特に無いので、自然に楽になるのを待つくらいしかやりようが無いのですが。
またいつか短いパスタ作ってよ。
これ、知ってますか?
Twitterで先月末にバズったツイートです。
僕はパスタを茹でる時パキッと半分に折って茹でるんですが、振られた後、同棲先から荷物返してもらうために一度だけ会いに行った時に「またいつか短いパスタ作ってよ」って何となく言われたの、多分一生引きずると思う
— あの尻 (@b_u_t_t) 2020年5月28日
読んでなにを思いましたか?
僕はきっと、こんなこと言われたら死にたくなると思いました。
あなたは「またいつか短いパスタ作ってよ」という一言からなにを思いますか。
あなたは“またいつか”という未来系に可能性を感じますか?
きっと去年の秋頃までの、つまり前の職場で働いていた頃の僕なら。友達もいて、パチンコや競馬で楽しく過ごして、仕事終わりには必ずハイボールを飲んでいたような僕なら、未来を感じたと思います。
きっと未来を感じて時間を置いて、近くの街に遊びに行くやらなんや、都合を見つけてふられた相手と連絡をとったでしょう。
今はもう思わないわけです。
人との関係が無くなる。ということに少しずつ慣れてきたのかもしれません。
ちなみにTwitterのリプライでは「そんなことは忘れて次の人を探そう」とか「別れ際にその一言はずるい」とか書いてありました。
僕が死にたくなると思ったのは短いパスタというワードです。
僕にとって短いパスタというのは馴染みが無いものです。ただそれだからといってなにもありません。別段どうでもいいことのように思えます。本当に些細なことです。
そんなどうでもいい短いパスタの話をこれから関係が無くなる人に別れの挨拶として使われたら、きっと僕は自分の価値を肯定できないでしょう。
だから僕は死にたくなるのです。
この頃、自分を保っていた仕事や趣味や関係が急に自分に刃を向けてくるような、そんな気がしています。
ではまた。